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富山売薬三百年の記録

富山売薬300年

ネットワークと先用後利の発明 — 大名が敷いた道、商人が編んだ網
出典:遠藤和子『富山のセールスマンシップ ── 薬売り成功の知恵』(サイマル出版会、1995年)/『富山の薬売り ── マーケティングの先駆者たち』(サイマル出版会、1993年)
上記2冊の読解に、Wikipedia・自治体資料・企業公式サイト等での独立した確認を加えて構成。伝承と確定史実は区別して記載しています(詳細は末尾「出典・注記」)。

三百年以上にわたり、単一の産業がひとつの地域から全国市場を保ち続けた例は、日本経済史のなかでも稀である。それを可能にしたのは、突出した一人の天才の発明ではなく、藩主が敷いた道の上に、独立した無数の商人たちが自ら編んだ「網(ネットワーク)」だった。

この網の構造を丁寧にたどると、今日のオンラインショップサブスクリプション・VMI(預託在庫)に通じる萌芽が見えてくる。そしてその先に、草の根VANが目指すもの——製造と販売が再びひとつになり、「ひとりを、ひとつを、ありがとう」を実現する仕組み——が見えてくる。

起源 — 伝承と、確かな史実

語り継がれてきた物語と、資料で裏づけられる事実を分けて読む

富山売薬の起源としてもっとも広く語られるのは、元禄3年(1690年)、江戸城内で腹痛を起こした大名に、富山藩2代藩主・前田正甫が携行していた妙薬「反魂丹」を服用させ、たちどころに治したという逸話である。腹痛を起こした大名は三春藩主・秋田輝季とする説がある。

史実注

この逸話には、同時代の史料による裏づけがない——これがWikipedia「富山の売薬」の記載である。江戸城内という限られた場での出来事を後世に検証するのは難しく、業界の起源譚として後年に形づくられた伝承である可能性が高い。本ページでは、この逸話を「事実」としてではなく、三百年間語り継がれてきた起源の物語として扱う。

一方、複数の資料が一致して指摘する確かな事実もある。正甫が発布したとされる「他領商売勝手」(藩の領域を越えて自由に商売することを認める方針)、そして元禄4年(1691年)ごろに富山商人による回商組織が生まれたこと。さらに同じころ、正甫は領内の修験者(山伏)が神仏への祈祷とあわせて配札に伴う配薬をしていた慣行を禁じている。

神仏の力にすがる「霊薬」から、効能によって選ばれる「商品」へ——薬が信仰から切り離され、商いの対象になった瞬間が、ここに記録されている。

育成 — 藩主が敷いた道

生みの親と育ての親、そして財政破綻から生まれた産業政策

正甫の代、売薬はまだ藩の主要産業ではなく、遠隔地への零細な行商として見過ごされていた。それを藩の主産業として制度化したのが、5代藩主・前田利幸である。

独立資料で確認

前田利幸は享保14年(1729年)生まれ。延享2年(1745年)、17歳で家督を相続。父の代から続く財政悪化のなか、株仲間の奨励・15年の借財返済計画・物価統制などの財政改革にあたったが、多くは不調に終わった。宝暦12年(1762年)、34歳で没した(富山県公文書館資料・GOOD LUCK TOYAMA記事等で確認)。

飢饉・大火・水害・地震が連続するなか、利幸は年貢や諸役の増徴という常道ではなく、「天候や土地条件にわずらわされぬ富山藩独自の産業」を興す道を選んだ。重臣の反対を押し切った論理を、著者はこう再現する。

「政治というものは、未来をみすえて高い理想を掲げ、それに近づくために努力し、民の暮らしをよくする。経国済民が政治の要諦だ。売薬産業への取り組みは、そのための足固めなのだ」

遠藤和子『富山の薬売り』── 前田利幸(著者による再現)
宝暦年間の四つの施策
減税宝暦3年(1753年)、反魂丹役金の取り立てを一時停止。財政難のさなかの営業税免除で、新規参入と回商拡大を促した。
品質宝暦2年(1752年)、売薬仲買人を任命し、原料薬種の吟味を制度化。国産ブランドの品質保証の起点となった。
通商正室の実家である加賀藩を突破口に、江戸城で各大名家をまわり反魂丹商人の受け入れを頼み込んだ。藩主自らが、他藩への市場開放を頭を下げて交渉した
支援各藩あての売薬許可状(反魂丹商売切手)を発行し、あわせて旅先での節度を諭す「売薬人の心得方」を制定。渡航証明と行動規範をセットで交付した。

ここで注目すべきは、市場を切り拓いたのが商人自身の営業力である以前に、藩主自らの外交だったという点である。一人ひとりの商人には、他藩の門を開ける力はない。まず藩主が最初の道を敷き、その道の上を、独立した商人たちが自由に往来した。これは、後の章で見る「網」の出発点にあたる、きわめて重要な構造である。

30藩余
新たに開放された藩(同書による)
2,200人
文久年間の売薬人数(同書による)
20万両
文久年間の年間売上高(同書による)

「民富」— 専売しない、という統治判断

利幸の政治の要諦は「民富」——領民の暮らしが豊かになれば、藩もあとから富む、という考え方だった。反魂丹役所を専売機関にはせず、商人の自主性と自由競争を残す道を選んだ。

「圧迫せず、干渉せず、これまで通り商人らの主体性をいかし、自由に活動させることにしよう。互いに競い合い、自主規制をしながら進めていくのが、理想的なあり方かもしれぬな」

遠藤和子『富山のセールスマンシップ』p.141

同時代の名君として知られる上杉鷹山(米沢藩)・細川重賢(熊本藩)の専売仕法は、生産者から製品を安く強制的に買い上げ、藩と御用商人が利益を独占する仕組みだったと著者は対比する。

生産者はただ働き同様の扱いで……領民らの自由意志による市場参加はない。御用商人の独壇場なのである。

遠藤和子『富山のセールスマンシップ』p.138

富山藩は逆に、商人の自主性を残したまま道だけを敷いた。この選択が、次章以降で見る商人主導の「網」を可能にした条件である。

理念 — 商人が結んだ心構え

松井屋源右衛門と「他利と自利の結合」

藩が敷いた道の上を、実際に歩いたのは商人たち自身である。富山売薬の基礎を築いた松井屋源右衛門は、享保2年(1717年)に72歳で没するまで、他国営業の指導的立場にあった。近江商人式の多角商法を真似る富山商人が出始めていたことへの危機感から、独自の商いの心構えを定めたと著者は推測する。

信念をもって仕事に望めば、それが相手の心に通じて安心感をもたれる。そして服用した薬で病いが癒えれば感謝される。この積み重ねが売り手に対する信用信頼を生み……自信をもって商いを続けることができる。

p.45

この理念は、越中に根づく浄土真宗の「他利」(慈悲・仏行としての奉仕)と、石田梅岩の石門心学が説く「自利」の正当化(利を取らざるは商人の道にあらず)が結びついて生まれた、と著者は位置づける。

実の商人は先も立ち、我も立つことを思ふなり。

石田梅岩『都鄙問答』、p.94 引用

製剤法の開放 — 独占の否定

他家の秘匿

大和売薬・中島家は分家にすら「他見他言は決していたしてはならぬ」と誓紙を取った。近江日野商人の「万病感応丸」も正野家の秘伝。反魂丹の元祖・万代常閑家も一子相伝を守り、代々の業を中止した。

富山売薬の開放

反魂丹をはじめすべての製剤法を惜しげもなく開放し、薬種屋の数を増やしていった。手代たちがそれぞれ独立し、自家で製剤するようになる。開放が量産化と市場拡大へつながった。

一人の豪商を生み出すより、富山町の商人がなべてうるおうことを主眼に置く。

p.50

個の独占より業界全体の持続を選ぶ、という発想は、次章で見る「網」——独立した商人たちが競合しながらも協調するネットワーク——の土壌になる。

網 — 先用後利・懸場帳・仲間組という三つの発明

中央に本社も工場もない。独立した商人たちが、共通の約束事でつながっていた

富山売薬がなぜ全国規模の商圏を実現できたのか。その答えは、一人ひとりの商人の営業力だけでは説明がつかない。先用後利(取引の約束事)・懸場帳(関係の記録様式)・仲間組(自主規律のネットワーク)という三つの発明が組み合わさって、初めて藩境を越える「網」になったのである。

先用後利 — 取引の共通ルール

薬を預け置き、次の回商で服用された分の代金を受け取る——遠距離の顧客を対象に、一回限りでなく継続することで永代化をめざす商法である。

これら委託販売や掛け売り商法の根底に流れているのは、まず消費者に使ってもらい、代金は後でいただくという「用を先に、利は後に」という考え方である。「使用価値を基準とした消費者サイドに立った販売形態」といえる。

p.83

信頼はどう生まれたか。松前藩の商人の逸話が、その順序を明かす。制度がまず信頼を生んだのではなく、毎年同じ家を訪ねるという反復が先にあり、信頼は事後的にそこへ宿った。

年一回とはいえ、同じ土地の同じ家に通い、互いに顔なじみになると、信頼関係が生まれる

p.85

懸場帳 — ネットワークのノードごとの記録

単なる備忘録の「大福帳」から、明和2年(1765年)ごろ、株仲間結成を機に精緻な顧客台帳へと発展した懸場帳。住所・品目・服用数から在庫予測・収支計算・家族の健康状態までを読み取れる帳簿である。

懸場帳は「緻密にして整然たる財務管理簿」である。また、一人の売薬商人と顧客との歴史を刻んだ記録でもある。

p.107

懸場帳は不動産同様に売買され、金融機関の担保物件にもなった。網の一つひとつのノード(商人と顧客との関係)が、相続・譲渡・担保化できる資産として扱われていたのである。

血と汗とで築きあげた何ものにもかえがたい唯一無二の財産。わが身の分身といってよい。それはまた、顧客との信用信頼の凝縮された歴史の遺産でもある。

p.110

仲間組(向寄) — 藩を越えた自主規律のネットワーク

同じ藩を回る商人どうしが自主的に組んだ「仲間組」は、旅先藩との交渉や、営業停止(差留)への対応、危難時の相互扶助を担った、商人間の水平的なネットワークである。競合関係にあった商人どうしが、仲間組への帰属を通じて協調関係に転じた実例が、出雲国の商圏争いに残っている。

本来、富山売薬商人たちにとって水橋連中は加賀領売薬商人として競合関係の立場にある。それが、いったん富山売薬の仲間組に入れば、同じ仲間として扱う。

p.297

三つが揃って、初めて「網」になる

先用後利が取引の共通ルール(プロトコル)を、懸場帳が関係ひとつひとつの記録(ノード)を、仲間組が商人間の自主規律とガバナンス(ネットワークの秩序)を担った。中央に本社も工場もない。独立した無数の商人たちが、この共通の約束事でゆるやかに結びつくことによって、藩境を越えた「網」を編み上げ、文久年間には2,200人・20万両という規模の商圏を実現したのである。

危機を越えて — そして「先用後利」への結晶

密貿易、薩摩藩、維新——三つの試練を越えて、一つの言葉が残る

天保6年(1835年)に発覚した唐物抜荷(密貿易)事件に、富山の薬種屋も連座した。著者はその動機を、明確に商いの精神へ結びつける。

幕府の利己的な考えに立った鎖国政策は、自由経済を阻害するもので、正常な交易とはいえない……抜荷は、江戸後期からますます活発化していく商品経済のなかで起きた自由経済への流れでもあった。

p.224

浄土真宗を厳禁する薩摩藩でも、富山売薬商人(薩摩組)は実意と誠意で顧客に接し続けた。藩が製煉所を建てて専売化を試みたが失敗し、結局富山売薬に頼らざるを得なくなった経緯を、著者はこう総括する。

「病める人への献身的加療者」という気持ちで顧客に接する。その姿勢が薬だけでなく、顧客の悩みをも聞き、親身に相談相手となって心の通じ合う信頼関係を結ぶ……いかに権力を振りかざしても、この顧客を中心とした愛の商法には勝てないのである。

p.242

明治新政府の西洋医学一辺倒の施策で、富山売薬は一時「気休め」と蔑視されたが、信頼は揺らがなかった。

それに比べ、売薬は長年飲み慣れている。代金は服用後に支払えばよい。何よりも、親身になって健康相談に乗ってくれる富山売薬商人に対する信頼は揺らぐことはなかった

p.253

明治9年(1876年)、廃藩置県で反魂丹役所が廃止されたのを機に、富山町の薬業者が共同出資して「廣貫堂」を設立した——これは広貫堂の公式沿革でも確認できる史実である。大正3年(1914年)9月22日、資本金50万円の株式会社に改組されたことも、同社の公式記録に残っている。

出典を分けて記載

この株式会社化にあたり、三代総理・二代邨沢金広が「用を先にし、利を後にする」という言葉を営業案内に記し、それが今日の「先用後利」というキャッチフレーズの直接の出典になった——というのは、遠藤和子『富山のセールスマンシップ』(p.259)に記された逸話である。広貫堂の公式サイト・Wikipediaには邨沢家についての記載がなく、この人物名を独立した資料で確認することはできなかった。株式会社化の事実は公式資料でも確認できるが、この逸話は原典書籍の記述として紹介する。

”天下の病人を救療するの誠意に基き、用を先にし、利を後にする趣旨にて、服用後においてその報を受ける……”

遠藤和子『富山のセールスマンシップ』p.259 より

継承 — 萌芽、そして草の根VANへ

三百年前の網に、今日の構造を読み解く

富山売薬が編んだ網は、中央集権の直営店網ではなかった。独立した商人たちが、共通のルール——先用後利という取引の約束事、懸場帳という記録の様式、仲間組という自主規律——でゆるやかに結びつくことで、藩境を越えた市場を実現していた。

これは、特定の店舗に消費者が出向くのではなく、商品と情報が消費者のもとへ直接届くという点で、今日のオンラインショップの構造に通じる。また、必要な分だけを預け置き、使った分だけ精算するという点で、サブスクリプションやVMI(ベンダー管理在庫)という考え方の萌芽を、すでに三百年前の記録の中に読み取ることができる。

越中売薬の網現代の商いにおける対応
先用後利(使った分だけ後払い)サブスクリプション/VMI(預託在庫)。先に価値を渡し、対価は後から回収する
懸場帳(ノードごとの関係記録)顧客データベース・CRM。草の根VANの中核機能「懸場帳」そのもの
仲間組(藩を越えた自主規律のネットワーク)業界団体の自主規制、組織単位でのデータ境界という設計思想
藩主が道を敷き、商人が自由に使う(官民の役割分担)誰の所有物でもない共通基盤(オープンソース)の上に、独立した担い手が自由に乗る構造
藩境を越えた回商網(分散型の全国市場)場所を選ばず消費者に直接届くオンラインショップ
製剤法の開放(技術を独占せず全体を底上げ)Linux・MySQL・Laravel等、開放された技術基盤の上に自分たちの仕組みを築くこと

製販一体、そして「ひとりを、ひとつを、ありがとう」

草の根VANが目指しているのは、この網をもう一度、インターネットという新しいインフラの上に編み直すことである。製造と販売が分離し、メーカーが消費者の顔を見えなくなった今日の流通構造は、正甫・利幸が切り拓こうとした「藩の外に出れば商いができない」という壁と、根っこは同じ閉塞である。

懸場帳が一人の商人と一軒の顧客との関係を記録し続けたように、草の根VANは担当者と消費者の関係をシステムとして記録し続ける。先用後利が売り手にリスクを負わせて信頼を先に差し出したように、草の根VANは「使った分だけ精算する」という設計を受け継ぐ。そして、藩主が道を敷き、商人がそれを自由に使ったように、草の根VANは特定の企業やサービスへの依存を前提とせず、参加者が自由に加入し、自由に離脱できる網であることを目指している。

「ひとりを、ひとつを、ありがとう」というスローガンは、二千数百人の商人たちが、それぞれの懸場帳を通じて一軒一軒の顧客と交わした関係の総体を、今日の言葉に置き換えたものにほかならない。製造と販売が再びひとつになったとき、三百年前に編まれた網は、形を変えて今日にも生き続けることになる。

出典・注記

本ページの多くの引用・エピソードは、1990年代に刊行された二次資料(下記書籍2冊)に基づいています。書籍中で人物の言葉として引用されている部分の多くは、限られた史料をもとに著者が推定・再構成した会話体である可能性があり、すべてを一次史料で裏づけられているわけではありません。年号・数値等、独立した資料で確認できたものにはその旨を本文中に付記し、確認できなかったものは「同書によれば」等と明記しています。

本ページは学術論文ではなく、草の根VANの理念を歴史的な文脈のなかで説明するための読み物です。内容に誤りをお気づきの場合は、運営までご連絡ください。

網は、今日も編まれ続けている
それは「自利他利の商業倫理」にもとづき、人と人との結び合い、助け合いから生まれる信用、信頼の商いだからである。マーケティングの極意とは、単に打算、計算、実利を頭におく「お金が最大という思想」でなく、それを超えたところに儲けがあり、事業を永続させることができることを、しみじみと知らされた。
── 遠藤和子『富山の薬売り』まえがき

藩主が道を敷き、商人が網を編み、その網が三百年後の玄関先でなお信頼を運んでいる。
草の根VANは、その網をインターネットの上にもう一度編み直そうとしている。